プロフィール

山振太郎

江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。

諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある 。

土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。

経歴

  • 天保6年(1836年)
    土佐国に生まれる
  • 嘉永6年(1853年)
    江戸に上り北辰一刀流の千葉定吉道場に入門
  • 安政5年(1858年)
    北辰一刀流長刀兵法目録を授かる
  • 文久元年(1861年)
    土佐勤王党に加わる
  • 文久3年(1863年)
    神戸海軍操練所塾頭
  • 慶応元年(1865年)
    長崎で亀山社中を設立
  • 慶応2年(1866年)
    薩長同盟が成立

幼少期

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったいう伝説がある。

弘化3年(1846年)、10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。 幼年の龍馬は12、13歳頃まであたかも愚人のように夜溺れの癖(寝小便癖)があったとされるが、愚童であったとの記録はない。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが、これも諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていない。以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという

学生時代

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。

4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現: 東京都中央区)の門人となる。

兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。

社会人時代

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。

翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。

2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。

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