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【読んだ】メタメタな時代の曖昧な私の文学(高橋 文樹)

2018年10月11日

インターネット時代のテキスト(文学)について書かれたエッセー。文学に限らずブログでもメディアでもなんでも、インターネット上で何らかのテキストを発信する人は、俺はいったい何を書いているんだ的なことを見つめ直すうえで読むべき。

以下、読書メモ。本書に書かれた内容への言及と、読んだときに考えたことがごっちゃになっているので、たまに謎の展開をしているが、面白いのでそのまま垂れ流している。

  • インターネットで人間に向けたテキストを公開したとしても、まずGoogleやfacebookのロボットによる選別にかけられ、良い評価を得なければ人間にリーチさせることができない。
  • そこで戦略的に導き出されるのは、「多くの人が興味を持っていてなおかつ政治的・宗教的でない話題について小学五年生くらいの語彙で7つ程度までの簡単な秘訣を紹介するようなテキストを書くこと」であり、筆者はこれを「身も蓋もない」としてネガテイブに捉えている。表現者の立場からすれば当然の感覚か。
  • 本来もっと共感すべきな気がするが、SEOライティングみたいなハウツーに毒されて麻痺してるのか、一読した時点ではそこまでピンとこなかった。マーケティングっぽい観点から、テキストを「表現」ではなく「商品」として捉えるようになると、むしろWEBのライティング技術的な考え方は分かりやすくて良いぞという感覚になってしまうが、自分はそこに疑問を持たなくて良かったのだろうか?といった気付きがあった。
  • 機械はムーアの法則に沿ってその能力を上げ、ヒトの様々な能力を陳腐化する。例えばフィルタリング。ヒトの書いたテキストの良し悪しは、従来、人力で判断していたが、どんどん機械にお伺いを立てるようになっている。その他、機械が人間に取って代わる能力として挙げられた「語彙などの知識量」「作品の質量を測る能力」「偶然を演出する能力」などは、まぁ確かにテクノロジーで解決しうる(すべき?)領域ではあるとは思う(ここは、機械に仕事を奪われる論VS人間がしなくてもいい、機械の方が効率がいいことは機械に任せて生産性を上げよう論の議論ではないかと思う)。
  • しかし、書いたテキストが良いか悪いか、を全て機械の判断におもねるべきか、あるいは無意識にそうなっていないか――知らず知らずのうちに、自分の思考を放棄して機械の判定によってテキストの良し悪しを判断していないか――という点は注意したい。
  • 高価な本=制作に負荷のかかる本。なるほど。
  • インターネットに無料のテキストが溢れ、電子書籍が台頭するいま、よく考えてみると、本の値段を原価で考えるとわけがわからなくなる。情報そのものを買うのではない。その読書体験、得られるもの(人によっては「文化的なコンテンツに対価を支払うイケてる自分)にいくら払っても良いか?を基準にしなければならない。付いている値段はテキストの価値ではなく、提供されるサービスに対してのものである。
  • 引用されていた、文学における「時代と寝る」という表現がイケている。WEBライティングに当てはめれば「Googleと寝る」というところだろうか。
  • 流行=検索アルゴリズムに寄り添うことは売春に等しいという考え。その思想の裏には、本来は流行には沿わないが素晴らしいテキストが書けるはずという「自惚れ」が垣間見えると筆者は指摘する。Googleの検索アルゴリズムはユーザーの動きを分析している訳なので、本質的にはここで春を売る相手はGoogleではないのかもしれないが。
  • それを踏まえて、世間(僕の観測範囲ですが)のSEO的なライティングの文脈を眺めると、「小手先のテクニックではなく、ユーザーを見てコンテンツを作れ」というのは正義とされているように思われる。しかしそれは「Googleではなくユーザーと寝ろ」みたいな話で、どっちにしても、自分の筆力で読み手を惹き付けるのではなくて相手と寝てるみたいな話だよねということになるまいか。つまりWEBにおける商売としてのライティングが出来るからといって、「それはお前のテキストなのか」みたいな自覚を持たねば、表面的なテキストしか書くことができなくなるのでは、という気がした。
  • インターネット上にテキストを公開する以上、最終的にGoogleかその向こうのユーザーの意に沿うテキストに整形する必要があるとはいえ。テキストに厚みを持たせるためには、原文として自分の考えや言葉が必要なのではなかろうか(それによって文章の質が上がるのか下がるのかは別として)。
  • テキストの背景にあるコンテクストとは部族の宗教である…特定の部族の持つ価値観や前提みたいなものが各属性毎に存在するみたいな話(より実践的に言えばターゲティングの話だけど)。確かにそれぞれの属性に「刺さる」テキストを書こうと思った時、単に趣味嗜好というだけではなくて、どのような文化の中でどのようなコンテンツに触れ、それらからどのような価値観や前提知識、さらには言語を用いているのか、というコンテキストを考慮する必要があるのかもしれない。ターゲットの属性によっては、きれいな日本語で書かれたテキストが必ずしも最適とは限らないと。
  • ちょうど以下の記事を読んだ。すべての会社は部族である~発達障害の僕が見た部族の掟~テキストに限らず、属性や所属が存在するあらゆる場所で部族の宗教化現象は発生するのだろう。相手の宗教を理解し、自分の宗教を押し付けない意識は必要なのだろう。
  • キュレーションという名の剽窃問題について。筆者は、コンテンツから発生する利益はコンテンツそのものの価値に由来するのではなく、コンテンツから如何に収益を上げるか?というビジネスマンとしての手腕に由来するとしている。
  • 著作権について考える時、現行法がどうなっているかに心を砕き、正直に忠実に法に則っるのみで、そして現行法でアウトな行為は悪である、という思考をしがちである。しかし出版ビジネスの成り立ちを踏まえて再考すると、その権利の本質的意味であったり、現行の制度が最適なのか?時代に沿っているのか?という疑問をあんま持ってなくて、無批判に、ただ現行法を金科玉条に戴いてしまっていないか、という点に気付かされた。著作権だけでなく、最近ではGDPRやコインハイブ事件など色々あるが、それらについても同様にそもそも論で考えられるようにしたい。「適法か否か?」と「その法は適切か?」は別問題。
  • 炎上を防ぐにはものすごい知識を蓄えて回避するか、ものすごく幸運であるか、どちらかしかない。炎上とはえてしてわけわからん方向から怒られる。
  • 紋切り型の表現は文学では批判されるが、検索エンジンの評価においては皆んなが検索するポピュラーなワードを繰り返し冗長に使う方が評価される。オリジナルな表現をしても、誰もそのワードで検索しない→これは言葉を目的とするか手段とするか的な問題であるように感じる。Googleは手段としてのテキストを重視していて、テキストによって伝達される情報こそが価値であり、その表現手法はできる限り平易で分かりやすいものにすべきと考えているのでは。だからテキストそのものの価値を提供したいと考える層(文学クラスタなど)とは、それこそ宗教的な考え方が異なる。
  • 悪い奴のせいでセキュリティのためのコストが余計にかかる。それは我々の飯の種でもある。WEBでは(WEBに限らず?)怒りのような負の感情が強く表れる。口コミ機能には不平不満が集まりがち。
  • 東浩紀『動物化するポストモダンオタクから見た日本社会』データベースから属性を組み合わせてキャラクターを消費する→作る側のキャラクターメイキングとしては大変分かりやすくてよい。作ってないけど。
  • インターネットでの技術的努力は広告や通販などの金儲けのために使われる。いつかは波及して、それ以外のもの(文学など)にも応用される日がくるかもね。
  • 可読性の高い(平易で読み易い)テキストが多く出回るようになった結果、予備知識が必要だったり、難しくて読者がそれを読むのに労力を払わなければならないテキストは相対的に難しさが上がってしまっている。確かに自分も長くてややこしいテキストに対する耐久力がなくなってきた気がする。
  • ただし、「読みやすさ/読みにくさ」と「内容の簡易さ/難解さ」はある程度分けて考えねばならないだろうとは思った。不要な表現で無駄に可読性を下げるのは、たとえ文学でもそれはどうかと思う。
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